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第二次広島抗争



第二次広島抗争の勃発と激化

亀井貢の密葬後、美能幸三は山本健一と兄弟盃を交わし報復の体制を整えた。

その報復を待たずしてさらに追い討ちを掛けるように1963年5月26日には打越会を絶縁された山口英弘の若衆が打越会の組員を殴打する事件が起きた(当時、山口(英)組の縄張りと打越会の縄張りがかぶっていて小競り合いが続いていた)。

直後に打越会の報復に先駆けて山口(英)組側が打越会の賭場を急襲、路上で銃撃戦となり抗争が一気に激化した。

打越側の報復は、打越信夫が抗争を嫌い雲隠れした事などから上手く組織が機能せず、当初打越側は一方的にやられっぱなしの状況となった。

業を煮やして打越を見限った山口組若頭・地道行雄は美能に亀井の組葬を指示し、葬儀名目で1340人の山口組系組員を広島へ大動員し、山口組の力を見せつけた。しかし広島県警が機動隊など大量動員を掛けて抗争の一方の首謀者である美能を7月5日に逮捕した。

美能を逮捕された山口組は報復を出来ずに帰らざるを得なかった。1963年9月可部温泉「松福荘」で射殺された打越会系西友会会長・岡友秋の葬儀の席上で「これはあくまで美能組と山村組との親子喧嘩じゃけん」と、

報復に消極的な打越に対して山本は激怒し、

「よう喧嘩も出来んで、なにが山口組の舎弟じゃ!笑わせるな!自分の喧嘩を買いもせんで人様がなに応援してくれる!そないに喧嘩したないんやったらわれはもう引っ込んどれ! ボケナスのタクシー野郎!」

(打越はタクシー会社を経営していた)と面罵し、山口組と広島のパイプを美能組にシフトした。

それでも一向に動こうとしない打越会に業を煮やした西友会は1963年9月19日山村組本拠・キャバレー「パレス」爆破、続いて山村組幹部・原田昭三宅をダイナマイトで爆破、さらに山村組との市街戦を展開するなど攻勢に出た。山村組の服部武は混迷する事態の中、周囲の声に押されて命懸けの特攻隊を組織し、山口組本部の便所をピース缶爆弾で爆破させた(玄関のガラスも割れたが、一階には人がおらずけが人は出なかった)。

名乗りは上げなかったがピース缶が広島で使われていた事もあり直後から山村組の仕業と思われていた。山村組側は打越会・山口組勢力に対抗するため山村組を発展的に解消し、1964年5月に政治結社共政会(初代会長・山村辰雄)を結成して組織固めを行った。

警察の介入と抗争終結

1963年9月、堪り兼ねた広島県警察は山村辰雄、打越信夫を逮捕した。1965年6月9日、山村は引退を声明し、県警で長年のヤクザ生活から足を洗うと述べた。

同年10月には二代目会長に服部武が就任。理事長には八月に出所した山田久が就いた。打越会との手打ちが成立するのは二年後の1967年8月25日である。

海生逸一の斡旋によるもので、翌26日、打越信夫は弁護士と伴に広島西警察署を訪れ、打越会を解散し堅気になることを誓った。

こうして死者9人、負傷者13人、被逮捕者168人を出し、中国地方最大の抗争となった広島抗争は終結した。山口組は実害が無かった(被害は全て打越会に出た)ものの、結果的に広島進出に失敗し、進出の機会が当分閉ざされることとなった。