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「必ず思い知らされる時が来る」 鳴海清



<概要>
鳴海清は1952年に大阪府西成に八百屋兼食堂を営む両親の元に生まれた。
中学を卒業後に一度は就職したものの長続きはせず、17歳で傷害致死の罪で少年院に送られた。
退院後、近所の女性と結婚して食堂経営を始めたがうまくいかず、地元のヤクザ・松田組系大日本正義団に出入りするようになり、やがて組員となった。

1975年、山口組と松田組の間で抗争が起こる。きっかけは山口組系佐々木組の構成員が松田組系溝口組の賭場で起こしたトラブルであった。
同年7月26日深夜、大阪府豊中市の喫茶店ジュテームで、溝口組の構成員らが佐々木組系切原組の構成員三人を射殺、一人に重傷を負わせた(ジュテーム事件)。
末端で起こったことであると当初は静観し、和解に向けて動いていた山口組であったが、和解の動きを知らなかった松田組系列が神戸の山口組本部に銃撃を仕掛けた。これにより抗争は本格的に激化した。

1975年9月3日、山口組系中西組の組員が松田組組長宅へ銃撃する事件が起きた。その数時間後、今度は中西組事務所への襲撃事件が起き、組員一人が射殺された。
この時、中西組への襲撃を行ったのが大日本正義団であった。翌1976年10月3日、佐々木組の組員が大日本正義団の会長吉田芳弘を大阪日本橋の商店街で射殺した。

山口組はこれで手打ちだと考えたが、会長を殺された大日本正義団はそう考えなかった。
亡き会長の弟・吉田芳幸を後継に立てて報復を誓った。組員だった鳴海清もその一人で、火葬後の遺骨をかじったという。
報復のターゲットは当時の山口組トップである田岡一雄と定められ、鳴海らは着々と準備を続けた。

1978年7月11日、鳴海らは田岡が京都市太秦の東映撮影所を訪れた帰りに、京阪三条駅前のクラブ・ベラミに立ち寄るという情報を得た。
急な京都行きだったため、警備は手薄であった。その隙をつき、鳴海は田岡の背後に潜入、射撃に成功した。田岡は首に軽傷を負っただけだったが、流れ弾で無関係の客二人が重傷を負った。いわゆるベラミ事件である。
鳴海は逃走に成功したが、警察は二日後には現場に残ったグラスやメガネの指紋から犯人を特定した。
組長を襲われた山口組も当然黙ってはいなかった。鳴海を含む大日本正義団はもちろん、松田組組長も攻撃対象とされた。

田岡を打ち損じたと知った鳴海はダイナマイトでの自爆攻撃も辞さないと覚悟を決めていた。それを知った松田組系忠成会は鳴海らを匿った。
同年8月13日、鳴海らは大阪の新聞社に田岡への挑戦状を送りつけた。田岡への嘲笑に満ちた文面は当然山口組の怒りを買い、同年11月の抗争終結まで松田組組員の射殺事件が相次いだ。

鳴海はといえば、同年の8月20日頃に外出したのを最後に姿を消した。
一ヶ月後の9月17日、神戸市六甲山中で鳴海とみられる腐乱死体が発見された。遺体はひどく腐乱しており、指紋などは採取できなかった。前歯が折られ、爪が剥がされているなど、全身に激しい暴行の跡が残っていた。
身元特定の手掛かりとなったのは背中に彫られた天女の刺青と腹巻きに入っていた子供の写真だった。
警察は鳴海を匿っていた忠成会によるものと推定し、幹事長衣笠豊ら五人を逮捕した。すっかり死ぬ気で怖いもの知らずになっていた鳴海を、忠成会は持て余していたという。ただし、逮捕された者たちの供述は微妙に食い違っていた。

同年11月1日、山口組はメディアを田岡邸に招き、一方的に抗争終結を宣言した。まもなく松田組も終結宣言を出し、大阪戦争と呼ばれた抗争は終結した。
だが、抗争の指揮を取っていた山口組若頭は収監され、体調を崩して死期を早めた。このことが、4代目争いを招く遠因となった。また、松田組は傘下の離脱を止められずに勢力を削がれ、1983年に解散した。

1990年1月28日、最高裁で衣笠らの殺人罪については無罪が言い渡された。ただし、逮捕監禁や同幇助罪で懲役8ヶ月〜1年の刑を言い渡されている。
199年には殺人罪の時効が成立し、鳴海殺害の犯人は現在も不明のままだ。