Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

保よ、おまえは地獄へ行 け。 わしも一緒に行ってやるから。吉展ちゃん誘拐殺人事件



「吉展ちゃん誘拐殺人事件」は、1963年3月31日に東京都台東区入谷で起きた男児誘拐殺人事件です。日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件から被害者やその家族に対しての被害拡大防止・プライバシー保護などの目的で、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれました。また、報道協定解除後の公開捜査でも、テレビを本格的に使い、犯人からの電話を公開して情報提供を求めるなど、メディアを活用して国民的関心を集めた初めての事件でもありました。犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になり事件解明まで2年3ヶ月を要したことなどから当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれていました。

【事件概要】

1963年3月31日、東京台東区入谷町の村越吉展ちゃん(4つ)が自宅前の公園に遊びに行ったまま行方不明となった。まもなく村越家に数度に渡る身代金要求の電話が入る。4月7日、犯人指定の「品川自動車」に母親(当時28歳)が身代金50万円を持っていくが、吉展ちゃんは戻らず、身代金だけが奪われた。
65年、迷宮入りかに見えたこの事件の捜査に平塚八兵衛らが投入される。以前から容疑者の一人だった元時計職人・小原保(当時30歳)のアリバイ崩しに成功し、自供させた。それによると吉展ちゃんはすでに殺害されていたことが判明、荒川区にある円通寺墓地にて遺体が発見された。

【消えた吉展ちゃん】

1963年3月31日、日曜日の夕方頃、東京台東区入谷町の村越吉展ちゃん(4つ)はそれまで近所のSちゃんと家の2階で遊んでいたが、「公園に行く」と行って家の前にある入谷南公園に遊びに行った。
午後6時ごろになって、同じく公園で遊んでいた妹たちが帰ってきたので、母親・豊子さん(当時28歳)が吉展ちゃんのことを尋ねると、公園では見かけなかったという。捜索願が出されたのは午後7時ごろだったが、下谷北警察署(現・下谷警察署)は迷子の手配をしており、警視庁捜査一課に連絡したのは翌日になってからだった。この出だしのつまづきが後の捜査の失態につながってくる。

捜査員たちは翌日からの聞きこみ捜査で吉展ちゃんの当日の目撃情報を集めた。

▽午後5時半頃、公園でやっている屋台のそば屋の男性が、吉展ちゃんが家の方に来るのを見た。
▽午後6時頃、ひとりで水を飲む吉展ちゃんを近所の駄菓子屋の女性が目撃、話しかける。
▽午後6時10分、公園の管理人が子供たちにもう家に帰るように言った時に吉展ちゃんの姿は見えなかった。
▽午後6時15分頃、最後の目撃。近所の小学3年生男児A君(当時8歳)が、公園の水飲み場で水鉄砲の水を入れていた吉展ちゃんに「水を飲まして」と話しかける。さらに「水飲み場では水が入れにくいだろう」と公園の隅にあるトイレの水道に一緒にくみに行った。ここで30歳くらいの鼠色のうすいような色のレインコートを着た男が便所の中に入ってきて、小便もしないで2人に「坊や、何してんだい。ほう、良い鉄砲だね」と話しかけてきた。暗くなってきたので吉展ちゃんは入り口の方に出て、そこで水を出そうとしていた。男もその後を追った。A君は2人をそこに残して帰宅。

行方不明となってからまもなく、村越工務店を営む吉展ちゃんの実家には合計9回に渡り男の声で身代金要求の電話がかかってきた。このため捜査員5人が村越家で待機。
4月7日午前1時25分、身代金受け渡しに関する電話がかかってくる。
「すぐに金を持って来てくれ。おばさん1人で。よその人はだめだ。お宅からまっすぐ来ると、昭和通りに突き当たったところに品川自動車というのがある。横に車が5台止まっている。3番目の小型四輪の荷台に品物(靴)が乗っている。他の者は1歩も外に出てはだめだ。車で来てもいいから、そこに金を置いてすぐ帰りなさい。家出待っていなさい。子供を渡す場所を1時間後に指定する。靴は置いたよ。警察に連絡するな。おしまいだからね」

しかし、ここで手違いが起こる。当初、先に5人の捜査員が出発し、受け渡し現場を包囲するはずだったが、合図の勘違いから母親・豊子さんの運転する車は予定より早く出発した。荷台には若い刑事を乗っていたが、他の刑事達は現場到着に2分ほど遅れた。豊子さんは犯人の指示通りの場所に50万円の入った包みを置き、荷台にあった吉展ちゃんの靴(片方)を持ち帰った。こうして50万円は奪われ、みすみす逃げられてしまう。ミスはまだあった。また持参した1万円札のナンバーもひかえてはいなかったのである。
こうした不手際を連発した警察に対する不満はかなり高まり、特に現場で最上階級だった警視庁捜査一課警部補・鈴木公一は「警視庁の恥」と酷評された。鈴木警部補は玉村四一刑事部長から「身代金を持っていくときは刑事を張りこませるな。人質の救出が最優先だ。犯人は後でゆっくり捕まえればよい」と指示されていたが、犯人逮捕をあせり失敗してしまった。

下谷北署の捜査本部では「東北訛りの40~50前後の男」と推定し、4月19日になって脅迫電話の男の声を公開し、一般の協力を依頼したが、逮捕に至る情報は得られず捜査は難航していた。この事件の大きな特徴として、国民の異常な関心の高さが挙げられる。事件解決を呼びかけるキャンペーンが繰り広げられ、ある精肉店の通勤バスには「吉展ちゃんを早く返して」という垂れ幕をつけて都心を走った。

4月25日午後6時、情報提供を呼びかけるラジオ放送を聞いた1人の男性が警視庁愛宕署(港区)を訪れた。「声の主が兄に似ている」というのである。まもなく元時計職人・小原保(当時28歳)が事情聴取を受けた。だが年齢が違う。犯人像である「40~50代の男」というのは言語学者である東北大学の鬼春人教授の分析によるものだった。教授は「郡山以南の出身」ということも言っており、これは当てはまっていたが、この推定年齢だけが犯人のイメージとして一人歩きしていた。
また小原は足が悪く、歩き方に特徴があった。そのような男が子供を連れて歩くと目立つが、そうした目撃情報は一切なかった。行方不明直前まで吉展ちゃんと一緒にいたK君も「そうした男は見ていない」と言った。身代金も速やかに奪い取るその犯人像に、足の悪い青年はどうしても重ならなかった。おまけに3月27日から4月2日まで福島の実家にいたというアリバイがあったため、小原は早々と「シロ」と判断された。

同年12月、小原に対する2度目の捜査が敢行され、刑事達は彼の実家を駆けまわったが、やはり4月1日早朝、小原が郷里にいたという目撃証言が浮かんできた。再び小原への捜査は打ちきられた。

【平塚八兵衛登場】

事件から2年が経った65年5月、捜査が完全に行き詰まった警視庁は捜査陣を一新、「昭和の名刑事」「警視庁の至宝」と呼ばれる平塚八兵衛を投入した。
平塚刑事ら新捜査陣は身代金要求テープを聞いて「この声は小原本人に間違いない」と確信する。あとに残る障害はアリバイだった。当時窃盗罪で前橋刑務所に服役していた小原を「最後の容疑者」として徹底的に調べ始める。平塚は福島へ出向き、「4月1日に小原を見た」という証人の「実はそれは28日のことだった」という誤りを確認。また小原は「29日に知人宅の土蔵の鍵を壊し、シミモチを食った」と話していたが、この年は米が不作でシミモチは作らなかったことも判明した。

福島から帰った平塚は自信満々に幹部に小原の強制捜査を申し出た。小原を刑務所から警視庁に移すということであり、幹部は躊躇した。それでも「あくまで任意」「拘留期限は10日」という条件を設けて許可された。

6月23日から始まった小原への3度目の取り調べも、なかなかうまくいかなかった。平塚刑事は小原に次々と自身が調べてきた事実をつきつけた。しかし、小原はたびたび黙り込み、平塚を困らせた。

7月3日、小原の拘留期限もぎりぎりに迫っていた。マスコミはすでに「小原の取り調べは人権を踏みにじっている」と書きたていた。この日、小原と平塚は何気ない世間話をしていたが、とある話から小原が「福島から東京に戻った63年4月3日に日暮里で火事を見た」と言った。これを平塚は聞き逃さなかった。西日暮里の大火は4月2日に起こっていたのだった。自ら墓穴を掘った小原に平塚は一気にたたみかける。

「俺がお前の家を出て帰りかけたときだった。坂の上の方から、腰の曲がったお前のお袋が、転がるように俺を追いかけてきたんだ。おまえのおふくろはどうしたと思う?いいか、よく見てろよ。お前のおふくろはこうしたんだ」

平塚は小原の前に土下座して続けた。

「私の息子は人様を傷つけるような悪い人間ではありません。でも、もしも、何か悪いことをしているなら、真人間になって早く本当のことを言うように言ってください」

これを聞いていた小原は黙っていたが、うなじにはみるみる鳥肌がたっていった。

「お前の持っている金は、吉展ちゃんのお母さんに関係あるのか」
「・・・・関係があります。詳しいことは明日、向う(警視庁)に行ってからお話します

こうして小原は落ちた。翌日からの取り調べではこれまで自身の中に封印していた真相を一気に話し始めた。態度も別人のように一変し、「もし、今度も人間に生まれて来たら、刑事になって社会正義のために尽くしたい」と語っている。
自供により荒川区南千住にある円通寺墓地から吉展ちゃんの遺体を発見。遺体は菩提寺である回向院で弔われ、供養のために「吉展地蔵尊」が建立された。

この事件後、刑法に身代金目的誘拐罪が設けられ、電話の逆探知も認められるようになった。

【小原保】

1933年、福島県石川郡石川町、貧しい農家の11人兄弟の10番目として生まれる。
小学5年の時にあかぎれが元で骨膜炎を患い、片足が不自由になった。同級生に歩き方を真似されるなど馬鹿にされたりしていたという。
中学卒業後、仙台の職業訓練所で時計修理の修行をし、各地の時計店で働く。小原が時計職人という仕事を選んだのは足が悪くても座ったままできるからだった。
1960年、上京して上野の時計店に勤めた。ところが、月給24000円では足りず、内職の時計ブローカーをしていたのがばれて63年1月にクビになり、その後は定職についていなかった。相変わらず、時計や貴金属のブローカーで金を稼いでいたが、飲み屋の女将と同棲し、ヒモのような生活をしていたこともあったという。
事件の起こった3月頃はブローカー業の借金返済が集中していた時だった。27日に福島の実家に金策へ出たが、実家は村でも貧しかったので、とても金を借りられる状態ではなかった。
東京に戻り、数日間野宿をしていたところ、小原は以前に予告編を観た「天国と地獄」(※)という映画を思い出した。これを参考にして、子供を誘拐しようと考えたのである。

3月31日午後5時45分頃、小原は用を足すために、台東区の入谷南公園のトイレに入った。トイレの中では2人の男の子が水鉄砲で遊んでいた。小原はこのうち身なりがきれいな方の男の子の水鉄砲の引き金部分が壊れていることに気づき、「直してやろうか」と声をかけ、連れ出した。この男の子こそ村越吉展ちゃんである。吉展ちゃんはこの日、たまたま母親と出かけるためによそ行きの格好をしていたのだった。
こうして吉展ちゃんは小原について歩き始めたが、その途中、「おじちゃん、足が痛いの?」と言った。小原はこの男の子を生きて帰せば、「足の悪いおじちゃんについて行った」と家族に話されるだろうと思い殺害を決意した。
2人はその後、北へと歩いていったが、吉展ちゃんが「オシッコしたい」と言った為、午後9時ごろ、荒川区南千住の円通寺境内脇で小便をさせた。この時住職が2人の後ろを通りかかり、「見られた」と思いこんだ小原はこの寺の墓地で歩き疲れて眠っている吉展ちゃんの首を蛇皮のバンドで絞め殺害した。遺体は墓石の下に隠し、身代金の要求を画策し始めた。

4月2日、事件を報じた新聞を読んだ小原は男の子の名前が吉展であることを初めて知った。自宅住所と電話番号を調べ、9回にわたる身代金要求の電話をかけた。
身代金50万円を奪った後は借金を返し、中学生の甥っ子には気前よく小遣いを与えていた。そして残った金でブローカーとしての再起をかけたが、ラジオが流す犯人の声にそっくりだったため警察に調べられ、世間の信用が戻らずうまくいかなかった。結局、またすぐに食い詰めるようになり、窃盗を犯し前橋刑務所に服役していた。

※「天国と地獄」・・・・原作・エド・マクベイン「キングの身代金」。監督・黒澤明。主演・三船敏郎 仲代達矢 山崎努。

【短歌との出会いと死刑執行】

1966年3月17日、東京地裁、死刑判決。

同年11月29日、東京高裁、控訴棄却。

1967年10月13日、最高裁で死刑確定。

死刑確定後の小原は以前にも増して荒れていた。家族、親類は誰も拘置所に面会には訪れなかった。そこである時、教誨師(※)・山田潮透師(日蓮宗僧侶)が短歌を勧める。当初、小原は教誨師の慰めは受け入れようとはしなかった。「自分は創価学会の信者だ」と言い、「坊主どもを折伏して見せる」と豪語する始末だった。そのため「何か拠り所を持たせてやらなければ」ということで、勧めたのが短歌だった。
山田教誨師の差し入れの短歌雑誌を読んだ小原は「土偶」という同人誌の存在を知る。これは長期療養者や回復者を会員とする雑誌だったが、1969年4月、小原は主催者に入会の相談の手紙を送る。「死を見つめるという意味では療養者も死刑囚も同じ」という文面に主催者は入会を許した。

その後の小原は「土偶」主催者の指導により、めきめき上達し、朝日歌壇に選ばれるなど、その才能が世間に知られていくようになった。
詩歌は「福島誠一」という名で投稿していたが、この名前は「今度生まれ変わる時は愛する故郷で誠一筋に生きる人間に生まれ変わるのだ」という願いが込められていた。彼が投稿した短歌は370首にも及んでいる。

 詫びとしてこの外にあらず冥福を 炎の如く声に祈るなり

朝あさを籠の小鳥と起き競べ 誦経しづかに処刑待つ日々

死ぬまでの課程こまごま記しつつ自戒厳しく日々を生きおり

ゆりかごの唄を忘れて人の子を あやめし悔いに母子像顕つ

世のためのたった一つの角膜の 献納願いを祈るがに書く

※教誨・・・・受刑者に徳性教育をし、正しい道に導くこと

1971年12月22日、翌日の死刑を言い渡された小原は次のような辞世の歌を詠んだ。

明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に開きつつ眠る

怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる

静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写るわが顔

世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木

12月23日、死刑執行。享年37。山田潮透師もこれに立ち会っていた。小原は執行前、供え物のドラ焼きを美味しそうに食べた。
当時、三億円事件の特別捜査本部にいた平塚刑事は宮城刑務所の看守から「真人間になって死んでいきます」という遺言を伝えられた。定年退職した後には、福島の小原の墓に訪れた。

一方、吉展ちゃんの母親・豊子さんは小原の死刑執行後の週刊誌の取材で彼の遺した歌を読み、次のように語っている。
「あの人がこんなきれいな気持ちになれた代償が、吉展の死だったとしたら、やはり私どもにとっては大きすぎる犠牲ですね。まあ、あの人がこんな人間になって死んでいったことは、せめてもの救いですけど・・・・天国で、吉展をかわいがってほしいですね」

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする