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東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です



宮崎 勤(みやざき つとむ、1962年8月21日 – 2008年6月17日)は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕、起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。

宮崎勤

宮崎勤

1962年8月21日 – 2008年6月17日

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

この事件は、4歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送り付ける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、極めて異常な行動を犯人が取ったことから、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件などとの比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。
特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、後に犯人の父親が自殺したことで「メディアスクラム」をはじめとする報道のあり方が疑問視された事件でもあった。

1989年7月23日、この事件の犯人である宮崎勤が別件のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、現行犯で逮捕された[1]。取り調べが行われる中で、8月9日に連続幼女誘拐殺人事件の一部の事件への関与を認める供述を始める。8月10日に供述どおりに遺体が発見され、その日の夕刊とテレビから大々的な実名報道が始まる。8月11日に誘拐と殺人の容疑で再逮捕され、以後9月にかけて4つの事件への関与を次々と供述する。なお、逮捕される前から宮崎が過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたとも言われている。

宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。2週間の調査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像を発見した。そして1989年9月2日に起訴に踏み切り、後に宮崎の供述により遺体が発見されたため、一連の事件犯人として追起訴した。

宮崎は公判において、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」など、不可解かつ身勝手な発言を繰り返していた。
1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下る。判決の朗読では冒頭で主文の死刑判決を言い渡された(通常、死刑判決では判決理由を朗読した上で主文を後回しにする)。控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。この自身の死刑確定について宮崎本人は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していたことが明らかになっている。

死刑確定後、手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いのほどを問われ「特に無い。いいことが出来て良かったと思う」と答えたことは遺族をはじめ世間から強い非難を浴びた。
2008年6月17日、鳩山邦夫法務大臣の下により東京拘置所に於いて死刑執行。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期まで無いままであった。

殺人事件

第一の事件

1988年8月22日、4歳の女児(以下KM)が誘拐・殺害される。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人にどうして写真だけでは済まなくなったかを聞かれた際は、第一次鑑定では「よく分かんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。

第二の事件

1988年10月3日、7歳の小学1年生の女児(以下YM)が誘拐・殺害される。こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという犯人の証言がある。動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べ、やはり不明瞭。

第三の事件

1988年12月9日、4歳の女児(以下NE)が誘拐・殺害される。NEは失禁した。焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、NEの全裸死体発見。12月20日NE宅に葉書が届く。この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人が他の被害者の遺体も送ることを計画するが、YMの遺体を発見できなかった。

第四の事件

1989年6月6日、5歳の女児(以下NA)が誘拐・殺害される。NAの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。11日NAのバラバラ殺人遺体発見。

第五の事件

宮崎勤が逮捕された事件。7月23日、東京都八王子市において「写真を撮らせて欲しい」と宮崎は姉妹に近づいた。危険を察知した姉はすぐに帰宅して父にこのことを報告、父は宮崎の後を追った。

車の中で宮崎は全裸の女児を撮影しようとしていたが、ついに女児の父が追いついて身柄を取り押さえられ、さらに通報によって駆けつけた警察に現行犯逮捕された。

逮捕後、宮崎の自供によって上記の四つの事件が宮崎勤の手によって行われたものであると判明した。

犯行声明 (1989年2月10・11日)

今野まりちゃん宅へ、遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です。
この、真理ちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人でしたことです。私がこうして真実を述べるのには、理由があるからです。
まず、あの段ボールに入った骨は、明らかに真理ちゃんの骨です。
その証かしを立てます。
まず、どうやって連れ去ったかを述べましょう。
去る8月22日、私は、私には、どうしても手をのばしても届くことのない子供を、今日一日は自分のものにしたい思いにかられ、入間ビレッジの8号棟裏に車を止め、あのプールでは、親に送り向かえをされない、一人で行き帰りをする子供達の方が多いことを、日頃から知っている私は、そのプールの出口付近に一人で立っていました。
すると、真理ちゃんと、兄弟の男の子と二人が出て来て、ポストの所で別々になり、真理ちゃんは、一人で家に帰る様子でした。水着で歩いて行くので、家が近い筈だとにらみ、つけ回す距離も短くてすむと思ったのです。……思った通り、真理ちゃんは家へ入りました。母親も中に居たよウです。さて、私は、母親の顔を見てから立ち去ろうと思い、7号棟入口付近に立っていましたが何と真理ちゃんが、すぐに出て来たのです。……そして、真理ちゃんが歩道を渡ると私は確信したので、私は、通りを走って、歩道橋の向こう側から走ってのぼり、上で真理ちゃんを待ち伏せ、言葉をかけて、真理ちゃんをつかまえます。うまくいったといウより、女同志でしたので、真理ちゃんは怪しまなかったと説明した方が適切でしょう。話しが、思ったより、思い通りにまとまり、「私が、車のクーラーを先に行って、かけているから、少したったら来てね。」と言って、先に車へ行き、乗って待った所、すぐに真理ちゃんは一人で来ました。……
そして、車を出しました。さすがに、「私をどこに連れてくの。」と、いつ聞かれるかひやひやしていましたが、急に、「私、泳ぎたいの。」と、真理ちゃんが言い出したのです。願ってもない展開でした。即座に、「おばさんもちょうど、川へ行きたかったところなの。」と、口を合わせました。……
とある川に着き、車を降り、二人で歩いて川まで行きます。やはり数人の人とすれちがいました。が、私達が、親子に見えたのでしょう。一人も怪しむ人は居ませんでした。
ここに証しの一つを立てましょう。新聞やテレビで、よく真理ちゃんの写真が掲示されましたが、プールからあガった真理ちゃんのぬれた髪は、その、どの写真の髪型のものでもありません。これは私しか知らない事実であります。つまり、たとえ私達を目撃した人が、真理ちゃんを見たにしても、“テレビでお捜しの真理ちゃん”を見ていないのです。
そこで、真理ちゃんを泳かせ、真理ちゃんを見守るのではなく、私達二人を誰かが見ていないかどウカを見守ります。居る様子はなく、来る様子さえありませんでした。すると、誰も来そウにないという気が集中して、異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。そして、子供を産むことが出来ないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、「このまま真理ちゃんを家に帰しては……」といウ思いのよぎりと、「今なら誰も見ていない」といウ思いのよぎりガ交差し合い、モヤモヤした、とめどもない高なりガ一気に爆発し、目の前の水を武器に、私は、真理ちゃんの髪の毛をつかみ、顔を川へ沈め、決して自分ガ、いいといウまで、頭を水面から上げさせませんでした。……

さあ、今度は隠さなくてはなりません。私は、近くの、背たけ以上もある夏草の茂みの中へ、だっこをして持って行き、そこへ置いて逃げました。
走りながら、おしゃべりをしていると、雨が急に降ってきました。その時、私に、口実が一つ増えました。「雨が降ってきたから、入間川じゃない川へ行こうね。」と言い、さらに、理由良くして、団地から遠ざかります。
とある川に着き、車を降り、二人で歩いて川まで行きます。やはり数人とすれちがいました。が、私たちが、親子に見えたのでしょう。一人も怪しむ人は居ませんでした。
そこで、真理ちゃんを泳がせ、真理ちゃんを見守るのではなく、私たち二人を誰かが見ていないかどうカを見守ります。居る様子はなく、来る様子さえありませんでした。すると、誰も来そうもないといウ気が集中して、異様な程に、胸が高まってくると、なぜかモヤモヤしてきました。そして、子供を産むことができないくせに、こうして目の前に自由な子ガイルといウ、自分にとっての不自然さが突如としてぶり返し、「このまま真理ちゃんを家に帰しては…」といウ思いのよぎりと、「今なら誰も見ていない」といウ思いのよぎりガ交差し合い、モヤモヤした、とめどもない高なりが一気に爆発。
さあ、今度は隠さなくてはなりません。私は、近くの、背たけのある夏草の茂みの中へ、だっこをして持って行き、そこへ置いて逃げました。
真理ちゃん宅に段ボールを置いた後の報道以来、犯人は今まで遺体を隠し持っていたと思われていますが、とんでもありません。いちいち持ち運ぶ余裕など、犯人にあるわけがありません。私は、つい最近まで、私しカ知らない場所で、真理ちゃんを持ち続け(置き続け)ていたのです。

では、どうして真理ちゃんの遺骨を運ぶようなことをしたのかを説明します。
真理ちゃんを手にかけた翌日、ニュースで「真理ちゃんが不明となり、まだ見つかっていません。」と聞きました。「ああ、まだ、あのままなのか」と思うと同時に、「行ってみようかよそうか」の迷いが消えたので助かりました。ところが別の番組で「真理ちゃんの母親が寝込む寸前」だと聞かされた時は、今まで「真理ちゃんに悪いことをした。」とだけ思っていたのが、初めて「真理ちゃんを可哀そうに」と思いました。
私は、今の今まで、一人で苦しんできました。正美ちゃん、絵梨香ちゃんの事件が起こりました。おそらく、私の事件に、触発された誰かが、面白半分に起こしたのでしょう。テレビで父親が、「(死んでいても)早く見つかって良かった。」と、話しているのを見て、初めて私にも何か決心じみたものが芽ばえました。「夜ならば、真理ちゃんの遺体を、そのうちにみつかりそうな場所まで運べるかもしれない。」と思いました。
そして、やはり、また、やろうかよそうかと迷い続けてきましたが、先日、やっと決心が着き、実行することにし、現場へ行きました。
ところが、どウでしょう。てっきり、冷たくかたくなった人間ガそこに居ると思っていたのに、何とそこには、真理ちゃんの骨だけになっているではありませんか。私は、思わず「ギャーッ」と悲鳴をあげそうになる程、近づくのもいやになり、もう私は何があってもたずさわるものかと一目散さんに逃げました。ところが逃げながらも、故か一つ何かが頭に浮かんだのです。「骨なら箱に入る。骨だから箱に入れて、人に見られても運んで行ける。」
と、急に、利点が頭に浮かんだのです。そして、逃げるための走りが、実行に移す(箱をとりにゆく)急ぎ足へと変わったのです。今の今まで、どうにかして、良心に知らせたくてしかたがなかったのですが、今回こうして、真理ちゃんが骨になっていさえしなければ、家まで帰そうなんて気にはならなかったです。
これは明らかに、真理ちゃんの骨です。遺骨を焼いていたら自然に骨は崩れてゆき――人間は骨になると、まず、その骨は、予想以上に小さくて、少なくなるんですね。箱には、拾った骨を全て入れたつもりです。今、この一件が、「恨み」だとか、「いたずら」「いやがらせ」「挑戦」だとか言われていますが、全く違います。私は、あくまでも、真理ちゃんを「帰し」に来たのです。
私はただただ真理ちゃんを帰しに行ったのです。ですから早く、真理ちゃんの御葬式をあげてやって下さい。あれが真理ちゃんなのです。本当なのです。
誠に身勝手ながら、私は、やはり捕まりたくはございませんが、このようなことは、もう決していたしません。
先日、テレビを見て、母親が警察から誤報を聞き「これでまた待つ希望が持てました。」と話しているのを見た時に、これは、きちんとすませてあげなければいけない。このままでは、本当に永久に真理ちゃんに気付かずに、家族は一生を終わってしまうと思い、これだけはと、急いで声明文を送った次第です。

動機

事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず・・・幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%8B%A4

宮崎勤の生い立ち【東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件】

家族

稀に見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。人々の宮崎への憎悪はそのまま彼の家族へと波及した。宮崎は両親の他に姉妹二人兄弟二人がいたが、彼らに対して「お前達も死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が大量に殺到した。長女は職を辞め次女は結婚予定であったが自ら婚約を破棄した。二人の兄弟もいずれも辞職した。父親の弟は、5つの会社の役員を全て辞職をした。また父親の次の弟には2人娘がいるが、職を辞めてしまい、旧姓に戻るため妻と離婚をした。母親の兄の2人の息子も辞職した。
背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる。

家族は宮崎の逮捕から1年後に引越をした。宮崎は父親に対して私選弁護人をつけてくれるよう要請したがこれを拒絶。4年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りを付けると、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋(水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり被害者家族を顧みない行為である」と非難した。佐木は他にも私選弁護士をつけるよう要請して来た宮崎を拒絶したことについても批判している。私選弁護人を選定しなかったことで国選弁護人が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。宮崎の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分備わっており、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。

父親とかねてから交流があり、事件後も父親へのコンタクトを定期的に続けた新聞記者は、「この事件を通して、加害者の家族は罪を犯した加害者以上の苦痛に苛まれることを知った」「加害者家族が直面する現実を、初めて目の当たりにした」と語っている。

宮崎の父親は、自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、全く関係のない自分の親族らにまで非難の矛先が向けられ、辞職したり、逼塞することを余儀なくされていることに苦悩していると、インタビューで言及していた。

現在、宮崎の出生家は取り壊されて空き地になっているが、その土地の買い手がだれも現れず、荒れ地になっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%8B%A4

宮崎勤の生い立ち

東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生。両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人[4]。祖父は引っ込み思案な勤を連れて歩き、可愛がっていた。

幼い頃から手首を回せず手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」(りょうがわせんてんせいとうしゃくこつゆごうしょう)という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があったが、医者から「手術しても100人に1人くらいしか成功しない。日常生活に支障がないなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう」と言われ、両親は「勤は幼い時から掌が不自由なのを気にしており、うまくいかないことを、掌のせいと考えてきたようだ。4歳の時に手術も考えたが、もし、手術して身障者のレッテルを張られたら、勤の将来に悪い結果となると判断し、そのままにした」と、積極的な治療を受けさせなかった。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何も対応しなかったため、非常に辛かった、と供述している。

小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった。中学生時代は1、2年生の時には陸上部、3年生の時には将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した。また通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった。成績は上位であって、小学校の頃から算数(数学)が得意と語っており、また宮崎の母が「うちの子は英語が得意なの」と自慢しており、英数の成績は良かった。しかし、その一方で国語と社会科を苦手としていた。1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが、両親は”英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した”と勘違いしていた。同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学。この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった。1982年の短期大学在学中にNHKのトーク番組『YOU』のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、他の出演者に隠れて、インタビューを受けることはなかった。俳優の川崎麻世は短大の同級生であるが、宮崎の逮捕時のインタビューでは「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった」というほど影が薄い存在であった。

1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった。1986年3月に依願退職という形で解雇。家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数ヶ月続いた。9月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった。この頃アニメの同人誌を発行するが、仲間から嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換、収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった[21]。ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた。逮捕後の家宅捜索では6000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する。1988年5月16日、祖父が死去。8月22日に第一の犯行を起こす。1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%8B%A4

宮崎勤の生い立ち【東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件】

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件

現行犯逮捕

1989年7月23日、わいせつ事件を起こそうとしていたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮崎は強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された[27]。8月9日から連続幼女誘拐殺人事件への関与を認め、8月10日にその供述どおりに遺体が発見されたことから、同日の夕刊とニュースで宮崎の実名報道が始まる。翌8月11日に連続幼女誘拐殺人事件の容疑で再逮捕された。以後、次々と事件が明るみに出た後、後藤正夫法務大臣(当時)は、「死刑くらいでは収まらない残酷な出来事だ」と発言した。1989年8月24日、東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。

精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まるとされ、これを受けて検察は起訴に踏み切った。初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか・・・」と罪状認否で訴えた。

公判開始後の1990年12月より、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される。この鑑定では動物虐待などの異常行動に目が向けられ、祖父の遺骨を食べたことなどは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた。1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされたことを証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した。

1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により再鑑定が始まる[32]。1994年12月に鑑定書が提出される。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B4%8E%E5%8B%A4

宮崎勤死刑囚に死刑執行

宮崎勤の生い立ち【東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件】

連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚(45)の死刑が17日、東京拘置所で執行された。判決確定から2年余り。宮崎死刑囚は再審請求の意向を示し、死刑制度を批判する手紙も公表したが、鳩山邦夫法相は早期の執行を決断した。社会を揺るがした特異な事件の発生から20年。法廷で不可解な発言を繰り返した男からは、最後まで反省や謝罪の言葉は聞かれなかった。

「絞首刑は残虐」。宮崎死刑囚は、月刊誌「創」の篠田博之編集長に宛てた手紙の中で現行の死刑制度を批判する持論を再三展開した。同誌06年7月号によると、宮崎死刑囚は現行の絞首刑について「踏み板(床板)がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである(人権の軽視になってしまいます)」と主張。薬物注射による執行の導入を訴えた。

また、07年5月の手紙では「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、刑執行時は恐怖とたたかわねばならず、反省のことなど考えなくなる」(同誌07年8月号)とも述べていた。

篠田編集長によると、宮崎死刑囚からはほぼ毎月、手紙が届いた。幻聴を訴えたり、拘置所内で放送されたラジオ番組の内容を詳細に記すこともあった。しかし、10年以上にわたる300通以上の手紙の中で、被害者や遺族への謝罪はなかったという。

執行を聞いた篠田編集長は「全く想定していなかった。極めて異例の早い執行だ」と驚きを隠さなかった。「彼は病気の影響もあって無頓着で、自分がどういう境遇にあるのか、よく分からない様子だった。死刑確定の意味についてもしっかり説明は受けていないようだった」と振り返った。

06年1月に最高裁で上告が棄却された後、東京拘置所で面会した関係者に対し、宮崎死刑囚はほおづえをつきながら「(死刑は)何かの間違い」と語った。再審請求する意向を周囲に示していたという。

なぜ、あのような事件を起こしたのか。この疑問を解こうと、臨床心理士の長谷川博一・東海学院大教授は最高裁判決の前日から約2週間の間に8回、宮崎死刑囚と拘置所で面会した。だが、公判で「(犯行時に)ネズミ人間が出てきた」などと不可解な供述をしていた宮崎死刑囚は、面会でも「常識では通用しない答えが多い」(長谷川教授)。反省の言葉を口にすることもなかったという。

http://blogs.yahoo.co.jp/erico007jp/43578340.html

宮崎勤が描いた絵

宮崎勤が描いた絵

宮崎勤が描いた絵

宮崎勤が描いた絵

宮崎勤が描いた絵

宮崎勤の家族の末路

1989年、東京と埼玉であい次いで起きた連続幼女誘拐殺人事件。4人の女の子を猥褻目的で誘拐し殺害した宮崎勤(みやざきつとむ)元死刑囚。殺害した幼女の遺骨を遺族に送りつけるなど残虐非道の行動をとった彼は遺族に謝罪もないまま死刑が確定。2008年に刑が執行されました。

そんな凶悪事件を追った坂本丁次さんは、宮崎勤の父親に取材できた数少ない人物です。宮崎勤の実家は東京都あきる野市五日市にあります。そこから徒歩30分程のところに坂本さんの実家があり、坂本さんの兄と宮崎勤の父親は小学校時代の同級生だったそうです。また宮崎勤の父親は地域限定のローカル新聞社を経営していて、坂本さんは大学3年4年の時にそこでアルバイトをしていました。そのため幼い頃の宮崎勤とも会ったことがありました。宮崎勤は生まれつき左手が不自由でした。そのせいか、父親は宮崎勤をあまり他人に会わせないようにしていたと言います。

宮崎勤には妹が2人いました。上の妹は近く職場の人と結婚することになっていましたが、事件のせいで婚約は破棄に。下の妹は看護学校へ行っていましたが退学。また父親の弟2人も仕事を退職した上、次男は持っていた会社を妻の名義に変更。三男は娘2人が宮崎姓を名乗ることの影響を考え、妻と離婚し引き取らせたと言います。また宮崎勤の母親の兄にも2人の子供がいて1人は警察官、もう一人は高校の教諭をしていましたがどちらも退職。事件に関係のない親戚たちもみんな被害をこうむっているのです。

宮崎勤の父親は土地など財産を全部処分して被害者に送り謝罪をしました。そして神代橋から投身自殺しました。

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